読書メモ—「まちづくり」のアイデアボックス

「まちづくり」のアイデアボックス

「まちづくり」のアイデアボックス

読んでる途中です。
いわゆる大規模開発(森ビルみたいな)によらない、既存のものを再利用したり読み替えを行うことで街を活気づけようという試みの事例を紹介している良著。
まあこういう事例ってよくあるよな、と思いきや、その考えを支える思想が事例に対応してちゃんと記述されているため理論と実践のつながりを見出すためには非常に良いと思う。いわゆるハウツー本とは一線を画す点がここにある。


ちょっと本の主旨とズレて瑣末なことで申し訳ないけれども、気になる部分があったのでメモ。以下引用。



景観は脳の外にある記憶
 人類学者、動物行動学者の山極寿一は、「記憶と風景」と題した小論の中で、風景の大切さを強調している。

 人間は記憶を脳の外に出すことができたので、数多くのことを学習できるという。つまり、体験した事項を風景に貼り付けていったん忘れることができるため、新しいことにどんどん対処できる。(中略)実はサルたちは自分の記憶している風景が奪われると、適切に動くことができなくなる。(中略)人間だって、親しんだ風景の記憶は忘れられないし、今の自分を支えてくれる大切な財産だ。それは人間が歴史によって自己を認知する動物だからである。脳の外に出した過去の記憶を取り戻さなければ、自分を見つめ直すことができない。それには過去の体験を貼り付けた風景が必要だ。
(引用終り)



本の中で引用している部分をさらに引用しているので引用の引用(孫引き)ということになりますな。これの科学的根拠はちょっと怪しいけれども、風景に自分の記憶を「貼り付ける」という表現には参った。確かにこういうことってあるよな。


でもこれって使い方によって薬にも毒にもなると思うんだけど、例えば僕なんかは(音楽のたとえになっちゃうけど)飲食店に入ってそこで安易にジャズが流れてたりなんかするとすごい嫌悪感を感じちゃうんだけど、なんかジャズ=おしゃれっていう共通認識を利用してその空間をおしゃれに見せかけるような、人の感情なんて定量化できちゃいますとでも言いたいかのような。それってすごい暴力的でほんとに我慢できないんだけど、まあそれは置いといて、つまり音楽を聴いて心地よくなるのって、記憶の作用によるものなのか、単純に空気の振動によるものなのか、その境界ってすごく曖昧。建物とかまちなみにも同じことが言えると思う。だからこそ、歴史を勉強するのって大事なんだと思うんです。要するに単なるイメージ操作によるものづくりなのかそうでないのかってことを自覚するために。音楽もそう。



要は(酔ってるせいで話が錯綜しまくるけど)アバンギャルド音楽を好む人はふたつに分かれると思うけど、単純にアバンギャルドが好きな人か、それとも本当に心地よい音ってなんなのかという真理に近づこうとする人。前者はポップミュージックをバカにするけど、後者はポップミュージックも適切に評価できる人だと思うんです。もし前者ならば、アバンギャルドがやりつくされてもはやアバンギャルドなんて何もないという状況になった場合(まさに現代)、その先はあるんですか?ということ。ジム・オルーク大友良英との対談で語っていたことで、本当に悲しいコードというものは存在しない、本当に面白いのは、なぜその音を悲しいと感じるのか?という疑問そのものだということを言っていた(ユリイカ大友良英特集、これは大友さんの人柄の良さが伝わってくるすごく良い特集。)のだけど、そこにものづくりの本質があるんじゃないかと思ってるわけで。まとまってないけどおわり。

ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英

ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英