引きこもり文学としての安部公房

安部公房『壁』に収録されている「S・カルマ氏の犯罪」を読む。
あまりにも痛快すぎる文章で一気に読み終わってしまった。


男が朝起きると名前を失っていた、という出だしは周知のようにカフカの「変身」を想起させるが、そちらに比べて安部の小説はあまりにも文章が痛快すぎる。

一見まるでデタラメですっとんきょうに見える場面展開は、まるで夢をみているときの風景によく似ている。すなわちこれは男が見ている夢の描写であると読み取ることもできる。


というのはどういうことかと言うと、名前を剥奪された人間は社会的な立場を全て失ってしまうということだが、同時に彼は社会の拘束から永久に逃れることができるようになる。これはある種モラトリアムに興じる若者が一度は見る夢であるが、現にカルマ氏は制裁から逃れるために「世界の果て」へ行くことを望むこととなる。


そして彼は結論に至る。世界の果てとは壁に囲まれた自分の部屋だということに。というのは言うまでもなく、まさしく現代におけるヒッキー達の理論。
この小説が描かれた1951年において、世界の果てを構築するのは部屋を囲う壁であり、これは言うまでもなく形而上の「壁」であった。現代、形而上の「壁」は電脳世界によってフィジカルに体現されてしまったようである。そして小説をよくよく読み込んでいけばわかることだが、これは実は全てカルマ氏が望んだ結末であった。(だからこの小説世界はカルマ氏の夢という形式をとっているのである)




終戦から6年、このとき27歳だった安部(俺とほとんど変わらん)は戦後世代と呼ばれ(安部は医学部で兵役を逃れた)、自由への渇望が非常に強かったと同時に、既に社会に対する閉塞感が生まれていたと思われる。(ちなみに「太陽の季節」はこの4年後の1955年に発表されている。)引きこもりたい、自由になりたいという願望は今もこの時代も変わらず、世代論なんてマジあてにならんということがわかる。現に、俺の周りには学生運動とか全共闘の世代がうらやましい、俺らもできればやりたいという人間は結構いる。要は時代的な空気でどういった特質が浮かび上がってくるか、という問題である。


なお、今回はひきこもり文学としての安部公房、というテーマだったが、その変幻自在の文体はひとつの解釈にはとてもおさまりきらない多様性を持っており、小説を読むという体験の面白さを教えてくれる。まあ言ってみればここで大体のストーリーをネタばれしてしまったわけだが、安部の魅力はネタとか構造ではなく、その読書体験にあると言ってよいだろう。えらそーなこと言ってますが、初安部公房ですすいません。


壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)






北海道旅行記はまた今度。書ければね、、、