ポストモダン再考

すごく行きたかったのに行けなかった、東大の福武ホールで行われた青木淳菊地成孔の、「形式の際」と題された対談ですが、今月の新建築に要旨がまとめられ掲載されていた。うまくまとめられていて内容的にはこれだけわかればもう充分でありがたい。


建築でポストモダンと言えば80年代に流行ったバブル建築がやり玉に挙げられていて、建築関係者の中にはポストモダンと聞いただけで眉をしかめる者もいるけどこれはポストモダンがかなり誤解されていると思う。要はあれは形態上の流行にポストモダンという冠をつけただけで、要は建築家のエゴの主張以外の何者でもなかった。(というのはその時代の知識が謙遜ではなく全くない僕の短絡的な見方かもしれなくて、今80年代ポストモダンをちゃんと見直そうという研究者の人もいるのでその成果に期待。)


で、肝心の対談の内容としては、菊地のポストモダンを『既製の構造をすべて読み解き、モダニズムを分解すること』と位置づけているのだけど、それがポストモダンの本来的な意味だと思うしそうだとすればまさに今始まったばかりだし色んな可能性が残されていると思う。(別にポストモダンという概念を用いることもないとは思うけど、それだとあまりにも誤解されたポストモダンがかわいそうだ。)


青木淳がこれに呼応して、従来の建築的単語を加工して構成する、つまり十字型に切られた窓が異様にでかかったり、従来の住宅のスケールを引き延ばしたり縮めること、で感覚の宙づり状態を作ろうという自らの手法の意図を説明。結論として青木は創作の原動力は自らが感じる圧迫感から逃れようとする切実さだと言う。


この切実さが空間の新しい様相を作るというのはわかるけれども、一方で、新しい様相を作ることの必然性や重要性を建築は説明できるんだろうか。確かに従来の方法に違和感や疎外感を感じる一定量の人々にとっては熱狂的に迎え入れられるだろうけど。まあ建築家による作品だと言ってしまえばそれまでだけど、正直な話、僕は青森県立美術館にはあまり感心しなかった。でも住宅スケールのは結構好きなんだよね。建築ってほんと難しい。



付記:東浩紀ポストモダンはデータベースで、菊地成孔ポストモダンは解体/再構築。この対比は一見微妙だけど実は正反対の意味で、前者が共同体を強化し再帰性を促すものだとすれば、後者は共同体を解体して再構築しようとするものだと思う。こう捉えるとなんとなく見通しがたってきた。



※写真に意味はありません。やたら堅い文章で軽く死にたくなったのでおまけでつけた東山魁夷館です。